つれづれぐさ

つれづれなるままに。

あなたとわたしのあいだに線が見えるとき

 

とてもわかりみの深いトイアンナさんのツイート

 

若い世代では相当減っただろうと思うけど、

「奢られて当然」

という思想に触れるたびに、

自分が考えていたことは、

シンプルに言うと、
相手と自分のあいだに引かれた「線」が見えるなぁ、
ということだった

 

この線が、より色濃くなっていくのか、消えていくのか、というのがその後大事になるのはそこまで説明もいらないだろうかと思う

 

人様のなにかの進め方について何かを言うのはアレなので、そこの是非については言及しない

 

でも、ひとつ確かなことは、こういう事を言う人は、「積極的に線を引いてくるタイプ」

だろうと予測が立てられる、ということ

 

それが何を意味するか、そしてそれがご自分の趣味趣向と合うかどうか、

といったことは読まれた皆様それぞれで考えてみていただきたいなと思うのです

 

おしまい

バランスとか設定とか

「バランス」を考えると先が読めることは結構多い

 

例えばデート詐欺のような、突然可愛い女子に声をかけられ、何やら楽しい事が待っていそうだという状況のような、

突然何の脈絡もなく、不当にこちらに有利な状況が起きたとしたら、どこかでしっぺ返しを食らう構造なんだろうな、ということはまともな人ならすぐ頭をよぎるだろう

 

最初アゲて、結局落として、トントン
なんなら時間は無駄にしてる


みたいな構造にあるものにわたしゃものすごく敏感

 

じゃあ、その逆も然りであるのか、というと、そうでもなかったりする

 

こちらに不利な状況が起きたときに、このあと報われるか

これはわからないときがある

 

最初落ちたので、あとはあがるだけ

 

と、そううまくはいかないことがある

 

これはなにか特定の事を指してる訳ではなくて、
色んなジャンルの色んなことに当てはまるだろうと思う

 

パチスロでいうところの「設定」、のように考えてみて、
いま世の中のバランス感はそんな感じの「設定」になってるように感じる

 

昔は耐えていると報われる「設定」だったっぽいんだけど、社会がそれを担保してくれる状況にないんじゃないかなぁ、と

 

そんなようなことをふわーと考える平日

本気を出したい、という願望

自分がなにかにイマイチ本気になれないときって、
相手が本気でないのを本能的に察知してしまっているからである事が本当に多い

 

本気の人達が集まる場に需要があるのは、本気になりたい、という願望が根源的にあるからなのだろうと思う

 

これは出会い系サイトの話でもあるけど笑、

なにかの活動でもそうだし、
一対一の人間関係でもそうな訳で

 

本気でやってるのがバカらしくなる瞬間というのを自分は結構感じてしまうタイプなのだと思う

 

自分だけがテンション高いことに対して、

恥ずかしいとかいうのもあるだろうけど、

それよりも、

暖簾に腕押し感というか、

壁ではなく沼にボールを投げている感覚になってしまうのと、その速度がおそらく人一倍速くて、やってて惨めな気持ちになってしまってる模様

 

なんでもいいのです

わたしたちは本気で何かがしたいのです

でも、ひとりでは面白みがないのです

 

なんでもいいのです

わたしたちは本気で何かがしたいのです

そこにあなたがいてくれたらもっと頑張れるように思うんです

 

歌詞っぽくまとめてオチとしておきます

 

おしまい

さんまさんのこと

久々に書きたくなった

衝動的にブログ書きたくなった

 

というのも、いかにもはてなダイアリー(はてなさんすみません・・)

安全な所から火炎瓶投げつけて燃えたらラッキー、な炎上商法な文章に出くわしたから、、

anond.hatelabo.jp

 

読んだらさんまさんフリークとして、居ても立っても居られない気持ちになったので、ひとまず書く

書くだけ書いてみる

 

まず、さんまさんのお笑いっていうのは、

「変わらない」

っていう事であると思う。

 

「いくつになってもさんまちゃんはさんまちゃんやねぇ」ていう笑い。

 

あの年齢でも「男」を出して、スケベさで笑いをとったりする。

確かにジェンダーレスになっていってる世間とは逆行してるともみれる。

 

テレビやラジオにしか出ない。頑なに出ない。

これも時代に逆行してる。

 

何が言いたいかというと、そういう時代の流れには、歩み寄る部分もあるけど、譲らないところは譲らないから「カッコイイ人だなぁ」と思ってたりする訳で。

 

そもそもの話で、一つ大事なこととして、

さんまさんと関係者の間では同意がある、ということを忘れてはいけないと思う。

 

つまりプロレス。

例えば、悪役レスラーが凶器をもって戦うのをみて、「卑怯だぞー!!」と言うひとはあまりいないと思う。

それに対して、いわゆる正規軍は、そういう行為にも「屈しない」ということを体現すべく、リング上の審判に掛け合って反則勝ちをとりにいくのではなく、血を流しながら自分のプロレスを貫いて勝つ姿勢をお客さんに見せている。

つまり、描きたいもののために皆でやってる事な訳で。 

 

モーニング娘。のあのコーナーだって同意がなければ成立しないのでは?

そこまでパワハラが通る世界なのか?

逆にこのご時世で?


これも結局は「そういうプロレスをしよう」て事だと思う。

あんまりこういうのを説明するのって無粋なんでやりたくないけど、そもそもあれは、「色気が無い」とされるメンバーの修行的な前フリもちゃんとあったんじゃなかったっけ?(ここは記憶が曖昧です。申し訳ないです)

 

このプロレスは、根本には面白いものをつくろう、関わった人も面白くなってもらいたい、という意図があると思う。それはさんまさんのだとも思う。

モーニング娘。の子でいえば、握手会などで「ほんとに色っぽくなったね」とファンと絡むネタがひとつは増える訳で。

何かしらの取っ掛かりをつくることをさんまさんは相当な数のタレントと共有してきた歴史がある。

わかりやすいのではハリセンボンの春菜さんとのやりとり。相当な数の人があれで春菜さんを認知してると思う。

(※その手の論客からすると賛否あるようだけど、あれをやり続けてるのは春菜さんの意思でもあると思う。

これは、個別具体のケースを一般化して評価・考えることの限界の話だと思うのだけど、長くなるのでこの話はここで割愛する。)

 

そして、知らない人は、あれが昔のさんまさんのラジオの有名な企画であったこともわからないのだろうと思う。

最初に書いた、「変わってない」という笑い。

「さんちゃん、まだこんなことやってるの」というメタな笑いをずっとやってるのである。

 

これは、時代に合わせて自分を変えざるを得なかった普通の人達にとっては、

「なんでこのひとは許されてるんだ」

てマインドになってしまうのかもしれない。

 

それはわからなくもない。

 

というかよくわかる。

 

我々普通の人々は、何かに付けて変わることを要求されまくって生きてる

そのなかで、時に自分を見失ったり、大きなストレスを抱えてしまったりすることもあるだろう。

だから、変わらない(かのように見える)さんまさんに対して「なんで?」と思うものがあるというのはとてもよくわかる。

 

でも、逆なのだと思う。

 

我々ファンが思ってるのは、逆なのだと思う。

 

なんで、さんまさんのこの笑いが成立するのかというと、

「変わっていってしまう世界の中に、変わらないものを見つけたときの喜び」

だと思う。

そうだとしか思えない。

 

映画『この世界の片隅に』、ですずに水原が、「普通のままでいてくれ」、というような言葉をかけるシーンがある。

もちろんこれはメタ視点では戦争が異常で、ありふれた日常こそがいとおしいものであることを印象づけるためのシーンなのだと思うけど、

水原個人の感情としては、すずにそのままであってほしい、という願望も多分にあると思う。

 

こういう願望は、我々のなかに普遍的にある願望だと思う。

昔のクラスで元気だったひとが今も元気でいてくれると嬉しい。

クラスのマドンナが今もかわいいし幸せそうだとなんだか嬉しい。

そういう感じ。

 

そして、その変わらないものを貴重なことだと思っている。

大事にしたいと思ってる。

 

だってそこには、自分たちが愛していたものが詰まっているから。

自分の生きた証のようなものでもあるから。

 

ファンとさんまさんの間にある感情は、

ちゃんと言語化しきれているかは不安だけど、そういうものではないかと思う。

 

少なくとも自分はそう。

 

こんな事を書いたところで大勢が変わることもないだろうし、ハロプロさんはかなりモラルのある会社と認識してるので、ラジオのコーナーもこのあと突然終わるかもしれない。

でも、書けてよかったなと思う。

 

さんまさんのことを知らない世代からすると、さんまさんは最初観た時から司会のポジションにいて、好き勝手しゃべっていて、というような感じに見えるだろうと思う。

だいぶハイコンテクストな存在になってしまったのは否めないと思う。

一個一個紐解いていかないと、なんで今のさんまさんが在るのか、ということに合点がいかないこともままあるだろう。

わかりやすそうな話で、さんまさんのWikipediaを観たことがあるだろうか?

とんでもない分量で、こんな分量のあるタレント、他にいないんじゃないかと思う。

明石家さんま - Wikipedia

それだけ色んな人の注目の中で歴史を重ねた稀有中の稀有なひとがさんまさんで、繰り返しになるけど、その稀有なことを我々は「面白い」「そのままでいてほしい」と願っている。

 

よくさんまさんのことを若者に説明するときにシェアする映像がある。

www.youtube.com

これを見ると、さんまさんがいかにその存在だけで人々の心の支えになっているかがわかると思う。

自分はこれを見ると笑いながらも、だんだん泣きそうになってしまうことさえある。

 

でも、これは、勝手にそうなった訳じゃないし、有名な人だから、とかのバイアスで人々が洗脳されてる訳でもなく、

さんまさんが毎日毎日人々を笑わせて、嫌なことも一緒に笑い飛ばしてきた歴史があるゆえのものだと思う。

テレビと現実の世界は繋がっていないと思えることもあるだろうけど、自分は繋がっていると思う。

「さんまさんに助けられた」って人、本当にめちゃくちゃたくさんいると思う。

 

なんだかまとまらなくなってきちゃったけど、少しでも届けばいいな。

 

おわり

ホンマでっかTV 怖がり特集にて 2020/8/12

先日この録画を観てて、
こわがり、のメカニズムみたいな話が面白かったのでメモしとこうと。

 

〜番組の大筋はこちらのブログさんをご覧になるとよいかと思います〜

【ホンマでっかTV】怖がりな人の人生相談!吉田沙保里さん・那須川天心さんの悩みを解消(8月12日) | NEWS123

 

個人的にささったのは、

・怖がりの人にとっての怖さは音
人間は大部分を目からの情報に頼って生きてるので、目に見えてないけど何か音がなった、という状況に出くわすと情報処理ができなくなって、怖さを覚えるということなんだそうな。

 

・怖がりの人で幽霊を見る人は少数派
怖がりで幽霊なんて見たくないなぁと思ってる人には幽霊は見えず、
見てもいい、何なら見てみたいっていうマインドのある人のほうが幽霊を見る
つまり信じない者には見えないし、信じる者には見える

 

・トイレをあけっぱなしにするのは怖いから

こういうひとがいるというのはたまに話を聞くけど、なんでこういうことをするのかなって思ってたんですが、そっか、怖いんだ、と。

あの吉田沙保里でも夜一人でいる時は怖いのでトイレを開けっ放しにしていると思うと凄い話だと思いませんか。

 

トキソプラズマの話

猫の糞に含まれるトキソプラズマという物質に感染すると恐怖心がなくなっていくという研究報告があるんだそうな、、!

そんなのなにも知らなかったー(猫人間という設定なのに)

猫が人類を支配してる説みたいなのをネットとかでたまに見かけたけど、あれはそういう文脈からきてたのかなとか今気づくという。

 

といったところですかね。

なかなか好きな回でした。

さんまさんの番組はこうやって書き残していきたいな。

 

おしまい

もしかして今、若者、楽しいんじゃない?

昨日繁華街らしい繁華街を歩いていて、

いっこ感じたことがあって、それは、
「若い人が多いなー
 、、、ていうかほぼ若者しかいないよね?」
ということだった。

 

最近友人と、
「もしてかしてさ、いま、若者って楽しいんじゃないかな?」という話をしていた。

 

なぜなら、上の世代がいないっていうのはとても自由で楽しいことであると思うから。
中学や高校の部活で3年生になったときの自由さ、楽しさは多くの人にわかってもらえると思う。


どの店に行っても自分の同年代の人ばかりいたら、その状況がまず面白いと感じてしまうんじゃないかと思う。
加えて普段並んでて入れない店もすぐ入れたりするわけで。調べたら有名店もすぐわかる時代なのだし、そういうお店めぐり、ふつうに楽しいと思う。

 

いま自分が学生くらいで、何も失うものがなかったら、繁華街に出入りするほうがリスクとリターンの天秤でいえば、リターンがでかいと感じてしまうだろうと思う。

 

そして若者が若者を呼ぶだろうことは想像に難くないことと思う。

 

これがいいことか、悪い事かとかいうのは正直なんともいえないし、評価をするつもりもなく。


でも現象として、起きつつあることで、
その現象が自分にネガティブに働くかもと思ったら、シンプルに避けておけばいいなと。

 

そんなように、やはり人の動きがコロナで変わってきてるように感じる。

 

そして、この時代に生まれる若者の文化とかストーリーもきっとあるんだろうなと思う。

 

、、さて、そうではない、オトナになっちゃった我々は、どこ行ったら楽しいでしょうかねぇ。

それを考えないといけないなぁって思う。

 

おしまい

「敵じゃないです」

「マスクをする理由ってなんなの?」

 て話をなんだか最近よく聞いている。

 

わりと身近でもそういう議論をしていて、

こんなに暑くて、苦しいのにマスクをする理由ってなんだろうね、と。

もちろん人にうつさないため、というのはあるけど、それにしてもマスクをするのがつらいっていうひとを、ネットでもリアルでもちょいちょいと見掛ける。

 

自分は、マスクの効果いかんも、手洗いとか消毒の効果も実際のところというのはよくわからないかもしれないけど、やれることはやっておいたらいいだろうと思う派。

だって専門家じゃないからわからないし。


アメリカとか他の国の死者数のニュースとかみてビックリするし・・。

news.yahoo.co.jp

www3.nhk.or.jp

 

前回投稿した記事の中でもふれた東洋経済のサイトで、実行再生産数をみて、全国平均で1以上が続くようなら慎重にやりすぎてもやりすぎるということはないんじゃないかなと思っている。

 

それともうひとつ、マスクには意味があると思う。

それは街とかででくわすひとに「敵じゃないです」って伝える意図があると思う。

正直、コロナに関しては考え方がバラバラ過ぎて多くの人が困っていると思う。

困惑するなかで、「俺はマスクしなくてもだいじょぶなんだ!」と言わんばかりに堂々としている人を見かけたら、基本的には「どういうつもりなんだろう?」ていうように思うのがふつうだろうと思う。

逆にいうと、マスクをしていれば基本的には「仲間ではある」ことはすぐに伝わるだろうと思う。

 

何の仲間か?

 

感染を拡大させたくないと思う仲間ってことでいいんじゃないかと思う。

 

マスクは一番わかりやすい意思表示になってると思う。

そのうえで、お年寄りとすれ違う時はめちゃくちゃ気を遣ったり、手渡しで何かを渡す時も消毒できればしてみたり、家での消毒も気を付けてみる、とか、やれることをやっておかないことにはよくなるものもよくならないと思う。

 

あまりに大きなことなので、個人でできることの限界みたいなのも当然感じる。

自分一人が一生懸命守ったって、他の人が対策してなかったらこういうことは意味がないのだから。

だけど、信じてみようと思う。

自分がラジオとかでのメールや電話などを通して伝わってくる一般の人々の姿勢というのは、できることをやる、という感じで足並みそろっていると思う。

 

精神論みたいで嫌だけど、消極的積極性とでもいうんだろうか。

マスクしたり、消毒したり、表向きはなんかよそよそしいかもしれないけど、

内心では他人のことをめちゃくちゃ思いやっている、みたいな、

坂本ドラマとか、東野圭吾作品に出てくるような人物像を皆で実践してみようじゃないかっていうような感覚でいる。

 

おしまい