つれづれぐさ

つれづれなるままに。

さんまさんのこと

久々に書きたくなった

衝動的にブログ書きたくなった

 

というのも、いかにもはてなダイアリー(はてなさんすみません・・)

安全な所から火炎瓶投げつけて燃えたらラッキー、な炎上商法な文章に出くわしたから、、

anond.hatelabo.jp

 

読んだらさんまさんフリークとして、居ても立っても居られない気持ちになったので、ひとまず書く

書くだけ書いてみる

 

まず、さんまさんのお笑いっていうのは、

「変わらない」

っていう事であると思う。

 

「いくつになってもさんまちゃんはさんまちゃんやねぇ」ていう笑い。

 

あの年齢でも「男」を出して、スケベさで笑いをとったりする。

確かにジェンダーレスになっていってる世間とは逆行してるともみれる。

 

テレビやラジオにしか出ない。頑なに出ない。

これも時代に逆行してる。

 

何が言いたいかというと、そういう時代の流れには、歩み寄る部分もあるけど、譲らないところは譲らないから「カッコイイ人だなぁ」と思ってたりする訳で。

 

そもそもの話で、一つ大事なこととして、

さんまさんと関係者の間では同意がある、ということを忘れてはいけないと思う。

 

つまりプロレス。

例えば、悪役レスラーが凶器をもって戦うのをみて、「卑怯だぞー!!」と言うひとはあまりいないと思う。

それに対して、いわゆる正規軍は、そういう行為にも「屈しない」ということを体現すべく、リング上の審判に掛け合って反則勝ちをとりにいくのではなく、血を流しながら自分のプロレスを貫いて勝つ姿勢をお客さんに見せている。

つまり、描きたいもののために皆でやってる事な訳で。 

 

モーニング娘。のあのコーナーだって同意がなければ成立しないのでは?

そこまでパワハラが通る世界なのか?

逆にこのご時世で?


これも結局は「そういうプロレスをしよう」て事だと思う。

あんまりこういうのを説明するのって無粋なんでやりたくないけど、そもそもあれは、「色気が無い」とされるメンバーの修行的な前フリもちゃんとあったんじゃなかったっけ?(ここは記憶が曖昧です。申し訳ないです)

 

このプロレスは、根本には面白いものをつくろう、関わった人も面白くなってもらいたい、という意図があると思う。それはさんまさんのだとも思う。

モーニング娘。の子でいえば、握手会などで「ほんとに色っぽくなったね」とファンと絡むネタがひとつは増える訳で。

何かしらの取っ掛かりをつくることをさんまさんは相当な数のタレントと共有してきた歴史がある。

わかりやすいのではハリセンボンの春菜さんとのやりとり。相当な数の人があれで春菜さんを認知してると思う。

(※その手の論客からすると賛否あるようだけど、あれをやり続けてるのは春菜さんの意思でもあると思う。

これは、個別具体のケースを一般化して評価・考えることの限界の話だと思うのだけど、長くなるのでこの話はここで割愛する。)

 

そして、知らない人は、あれが昔のさんまさんのラジオの有名な企画であったこともわからないのだろうと思う。

最初に書いた、「変わってない」という笑い。

「さんちゃん、まだこんなことやってるの」というメタな笑いをずっとやってるのである。

 

これは、時代に合わせて自分を変えざるを得なかった普通の人達にとっては、

「なんでこのひとは許されてるんだ」

てマインドになってしまうのかもしれない。

 

それはわからなくもない。

 

というかよくわかる。

 

我々普通の人々は、何かに付けて変わることを要求されまくって生きてる

そのなかで、時に自分を見失ったり、大きなストレスを抱えてしまったりすることもあるだろう。

だから、変わらない(かのように見える)さんまさんに対して「なんで?」と思うものがあるというのはとてもよくわかる。

 

でも、逆なのだと思う。

 

我々ファンが思ってるのは、逆なのだと思う。

 

なんで、さんまさんのこの笑いが成立するのかというと、

「変わっていってしまう世界の中に、変わらないものを見つけたときの喜び」

だと思う。

そうだとしか思えない。

 

映画『この世界の片隅に』、ですずに水原が、「普通のままでいてくれ」、というような言葉をかけるシーンがある。

もちろんこれはメタ視点では戦争が異常で、ありふれた日常こそがいとおしいものであることを印象づけるためのシーンなのだと思うけど、

水原個人の感情としては、すずにそのままであってほしい、という願望も多分にあると思う。

 

こういう願望は、我々のなかに普遍的にある願望だと思う。

昔のクラスで元気だったひとが今も元気でいてくれると嬉しい。

クラスのマドンナが今もかわいいし幸せそうだとなんだか嬉しい。

そういう感じ。

 

そして、その変わらないものを貴重なことだと思っている。

大事にしたいと思ってる。

 

だってそこには、自分たちが愛していたものが詰まっているから。

自分の生きた証のようなものでもあるから。

 

ファンとさんまさんの間にある感情は、

ちゃんと言語化しきれているかは不安だけど、そういうものではないかと思う。

 

少なくとも自分はそう。

 

こんな事を書いたところで大勢が変わることもないだろうし、ハロプロさんはかなりモラルのある会社と認識してるので、ラジオのコーナーもこのあと突然終わるかもしれない。

でも、書けてよかったなと思う。

 

さんまさんのことを知らない世代からすると、さんまさんは最初観た時から司会のポジションにいて、好き勝手しゃべっていて、というような感じに見えるだろうと思う。

だいぶハイコンテクストな存在になってしまったのは否めないと思う。

一個一個紐解いていかないと、なんで今のさんまさんが在るのか、ということに合点がいかないこともままあるだろう。

わかりやすそうな話で、さんまさんのWikipediaを観たことがあるだろうか?

とんでもない分量で、こんな分量のあるタレント、他にいないんじゃないかと思う。

明石家さんま - Wikipedia

それだけ色んな人の注目の中で歴史を重ねた稀有中の稀有なひとがさんまさんで、繰り返しになるけど、その稀有なことを我々は「面白い」「そのままでいてほしい」と願っている。

 

よくさんまさんのことを若者に説明するときにシェアする映像がある。

www.youtube.com

これを見ると、さんまさんがいかにその存在だけで人々の心の支えになっているかがわかると思う。

自分はこれを見ると笑いながらも、だんだん泣きそうになってしまうことさえある。

 

でも、これは、勝手にそうなった訳じゃないし、有名な人だから、とかのバイアスで人々が洗脳されてる訳でもなく、

さんまさんが毎日毎日人々を笑わせて、嫌なことも一緒に笑い飛ばしてきた歴史があるゆえのものだと思う。

テレビと現実の世界は繋がっていないと思えることもあるだろうけど、自分は繋がっていると思う。

「さんまさんに助けられた」って人、本当にめちゃくちゃたくさんいると思う。

 

なんだかまとまらなくなってきちゃったけど、少しでも届けばいいな。

 

おわり