つれづれぐさ

つれづれなるままに。

新年のご挨拶と、(いまさら)さんまさんの画商プロジェクトが凄いなと思ったハナシ

新年明けましておめでとうございます。
 
以前立てた目標、
図書館がコロナの関係で全然家にいたほうがよくて、いけてません。
 
筋トレは、少しだけ習慣化していて、腕、胸とか肩を中心にやっているのですが、
いまの習慣が横に広がっていって、全身に及んでいくのをもくろんでます。
よくトレーニングしている方々が言っている、「やらないと気持ち悪い」っていう境地にいかないと成功はないと思っています。
 
今年はそれらを継続しつつ、実はMacbook Proを去年買ってたので、Macを使いこなすというのを目標にしたいと思います。
(Macbook買ったぜっていう記事書いたらよかったなー。)
 
てことで抱負コーナーおわり。
以下、いつもの感じのブログかきまーす。
 
今回はテレビログです。
(ここから書き言葉も一人語り調に変わります。)
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年末年始、いろいろテレビみてたけど、
さんまさんの画商プロジェクトが何やら凄いなぁと思う
 
これまで展示会などをやっても絵が売れる事がなかったアーティストさんたちの絵が、何十万という値段がついて売れていき、アーティストさんも涙を浮かべているさまをみていると、
芸術とかにお金を払うっていうのは何だろう?という事をどうにも考えさせられる
 
ちょうどコンフィデンスマンJPの絵画商のお話を年末に観てた(まじで何度観てもおもしろい)こともあって、凄くこの年の瀬で印象に残ってる
 
観ているうちに考えたのは、
アーティストとユーザーが直接つながるよりも、
何か仲介者を通したほうが意味のあるもの、価値のあるものとして受け止められやすいというケースもあるのだろうなということ
 
今回はさんまさんがキュレーターとしてあいだに入っていたり、番組企画というパッケージで届ける事で、一枚も売れる事のなかったものが売れるという現象が起きている
価値がついたとかいうよりも、これまでアートに全然興味がなかった人が多く足を運んだという事がでかいようにも感じる
 
アーテイストさんの涙と、「~に飾ります」と語るお客さんの笑顔をみていて、
このマッチング、めちゃくちゃ素敵だと思う
この現場の多幸感凄いだろうな
こういう現場に居合わせたいな~いいイベントだなぁ
 
また、アートに込められた想いやバックグラウンドを知ると、もうその情報なしではそのアートを観られなくなるってヤスケンさんが話していたのに凄く共感した
 
大いなる余談だけど、
知ることってほんと大事で、
よく「興味ない」っていうひとっているけど、
「知ること」のほうが大事というか、前段にあるものだと思う
(若干鶏が先か卵が先かというような話ではあるけど、、)
 
興味っていうのは、基本多少なりとも自分から踏み込むという事に思う
知るっていうのは、入ってくるものもあるので、受動的でも成立する
そう思うと、知る、のほうがとっかかりやすいと思う
このへんは気が向いたらまた別の記事で書こうかな
 
話を戻して、さんまさんの画商プロジェクト、
きっかけは、番組でさんまさんの脳を検査したときに、科学的にさんまさんに向いている職業が「画商」だったという事から、やってみようってなってて、
もう企画のタネの部分から素晴らしいなと思う
 
願わくば、
形骸化してしまって何の感動も生まないものになったり、
何らかの利権化してしまったり、
盗作とかのトラブルが起きたりすることなく(防ぎようのないものもあるとは思うけど)、
これからもアートとお客さんの幸福なマッチングを続けてほしいなと思います。
 
おしまい

ある日のホンマでっかTV

シンプルなテレビログ

 

ささったものは書き残しておきたいなと

 

少し前のホンマでっかTVを観てたら、
「毎月会うような友人が7人以上いる人は鬱になりやすい」
という研究結果が出てるそうな

 

要は人間関係に囚われる時間が長過ぎると心の安定がとれなくなるということかと

 

適正人数は3人くらいらしく

 

また、一人上手には優秀な人が多かったり、想像力があってクリエイティブな人も多いんだとか

 

この回では、友達の定義という話をしてて、
友達とは、
「なんの実益もないのに一緒にいたいと思う人」
と植木先生が話してて、説明しやすくていいなと思ったのと、フレンズ(ドラマ)大好きな自分にはわかりみしかなかった

 

ホンマでっかTVは毎回何気ないところで大事な話をしてる感じがおもろい

 

あと、キムタクが少し前にホンマでっかも含めて、色んな番組に出てまわってた時期があったんだけど、どの番組でも超絶素晴らしいコメントをシンプルにキメてて「歩く撮れ高としか思えなかった

 

他にも、トゲアリトゲナシトゲトゲの話とか、オードリーまわりとか、普段見てていいなと思ってる番組のことはちょこちょこシンプルに書き残しておきたいなー

 

おしまい

あちこちオードリー(ゲスト星野源) 2021年6月30日

https://tver.jp/corner/f0077793

 

言わずもがなな傑作回

 

ガッキーの事を直接訊くくだりは一切ナシ
全て源くんが一人称の話しか聞いてなかった若ちゃんの気遣い

 

長年の付き合いならではのエピソードトークもあり

 

刺さった箇所は、
・「らしさ」は俺が握ってるはずなのに、、

 

しくじり先生での若ちゃんの姿勢が素晴らしかったと語る源くん

 

・(多くの人には)伝わらないだろう、わかってくれないだろう、見てくれてないだろう、て思いながら自分の信念に基づいて物事に取り組むけど、伊集院さんと源くんはみてくれている。少しでもわかってくれる人がいたときは本当に嬉しい。

 

というようなところ

 

すべてわかりみが深過ぎて観てて泣きそうになった

 

個人の信念とか、取組みとかって、本当どうでもいいとされがちな世の中だから本当に共感する

さんまさんのこと

久々に書きたくなった

衝動的にブログ書きたくなった

 

というのも、いかにもはてなダイアリー(はてなさんすみません・・)

安全な所から火炎瓶投げつけて燃えたらラッキー、な炎上商法な文章に出くわしたから、、

anond.hatelabo.jp

 

読んだらさんまさんフリークとして、居ても立っても居られない気持ちになったので、ひとまず書く

書くだけ書いてみる

 

まず、さんまさんのお笑いっていうのは、

「変わらない」

っていう事であると思う。

 

「いくつになってもさんまちゃんはさんまちゃんやねぇ」ていう笑い。

 

あの年齢でも「男」を出して、スケベさで笑いをとったりする。

確かにジェンダーレスになっていってる世間とは逆行してるともみれる。

 

テレビやラジオにしか出ない。頑なに出ない。

これも時代に逆行してる。

 

何が言いたいかというと、そういう時代の流れには、歩み寄る部分もあるけど、譲らないところは譲らないから「カッコイイ人だなぁ」と思ってたりする訳で。

 

そもそもの話で、一つ大事なこととして、

さんまさんと関係者の間では同意がある、ということを忘れてはいけないと思う。

 

つまりプロレス。

例えば、悪役レスラーが凶器をもって戦うのをみて、「卑怯だぞー!!」と言うひとはあまりいないと思う。

それに対して、いわゆる正規軍は、そういう行為にも「屈しない」ということを体現すべく、リング上の審判に掛け合って反則勝ちをとりにいくのではなく、血を流しながら自分のプロレスを貫いて勝つ姿勢をお客さんに見せている。

つまり、描きたいもののために皆でやってる事な訳で。 

 

モーニング娘。のあのコーナーだって同意がなければ成立しないのでは?

そこまでパワハラが通る世界なのか?

逆にこのご時世で?


これも結局は「そういうプロレスをしよう」て事だと思う。

あんまりこういうのを説明するのって無粋なんでやりたくないけど、そもそもあれは、「色気が無い」とされるメンバーの修行的な前フリもちゃんとあったんじゃなかったっけ?(ここは記憶が曖昧です。申し訳ないです)

 

このプロレスは、根本には面白いものをつくろう、関わった人も面白くなってもらいたい、という意図があると思う。それはさんまさんのだとも思う。

モーニング娘。の子でいえば、握手会などで「ほんとに色っぽくなったね」とファンと絡むネタがひとつは増える訳で。

何かしらの取っ掛かりをつくることをさんまさんは相当な数のタレントと共有してきた歴史がある。

わかりやすいのではハリセンボンの春菜さんとのやりとり。相当な数の人があれで春菜さんを認知してると思う。

(※その手の論客からすると賛否あるようだけど、あれをやり続けてるのは春菜さんの意思でもあると思う。

これは、個別具体のケースを一般化して評価・考えることの限界の話だと思うのだけど、長くなるのでこの話はここで割愛する。)

 

そして、知らない人は、あれが昔のさんまさんのラジオの有名な企画であったこともわからないのだろうと思う。

最初に書いた、「変わってない」という笑い。

「さんちゃん、まだこんなことやってるの」というメタな笑いをずっとやってるのである。

 

これは、時代に合わせて自分を変えざるを得なかった普通の人達にとっては、

「なんでこのひとは許されてるんだ」

てマインドになってしまうのかもしれない。

 

それはわからなくもない。

 

というかよくわかる。

 

我々普通の人々は、何かに付けて変わることを要求されまくって生きてる

そのなかで、時に自分を見失ったり、大きなストレスを抱えてしまったりすることもあるだろう。

だから、変わらない(かのように見える)さんまさんに対して「なんで?」と思うものがあるというのはとてもよくわかる。

 

でも、逆なのだと思う。

 

我々ファンが思ってるのは、逆なのだと思う。

 

なんで、さんまさんのこの笑いが成立するのかというと、

「変わっていってしまう世界の中に、変わらないものを見つけたときの喜び」

だと思う。

そうだとしか思えない。

 

映画『この世界の片隅に』、ですずに水原が、「普通のままでいてくれ」、というような言葉をかけるシーンがある。

もちろんこれはメタ視点では戦争が異常で、ありふれた日常こそがいとおしいものであることを印象づけるためのシーンなのだと思うけど、

水原個人の感情としては、すずにそのままであってほしい、という願望も多分にあると思う。

 

こういう願望は、我々のなかに普遍的にある願望だと思う。

昔のクラスで元気だったひとが今も元気でいてくれると嬉しい。

クラスのマドンナが今もかわいいし幸せそうだとなんだか嬉しい。

そういう感じ。

 

そして、その変わらないものを貴重なことだと思っている。

大事にしたいと思ってる。

 

だってそこには、自分たちが愛していたものが詰まっているから。

自分の生きた証のようなものでもあるから。

 

ファンとさんまさんの間にある感情は、

ちゃんと言語化しきれているかは不安だけど、そういうものではないかと思う。

 

少なくとも自分はそう。

 

こんな事を書いたところで大勢が変わることもないだろうし、ハロプロさんはかなりモラルのある会社と認識してるので、ラジオのコーナーもこのあと突然終わるかもしれない。

でも、書けてよかったなと思う。

 

さんまさんのことを知らない世代からすると、さんまさんは最初観た時から司会のポジションにいて、好き勝手しゃべっていて、というような感じに見えるだろうと思う。

だいぶハイコンテクストな存在になってしまったのは否めないと思う。

一個一個紐解いていかないと、なんで今のさんまさんが在るのか、ということに合点がいかないこともままあるだろう。

わかりやすそうな話で、さんまさんのWikipediaを観たことがあるだろうか?

とんでもない分量で、こんな分量のあるタレント、他にいないんじゃないかと思う。

明石家さんま - Wikipedia

それだけ色んな人の注目の中で歴史を重ねた稀有中の稀有なひとがさんまさんで、繰り返しになるけど、その稀有なことを我々は「面白い」「そのままでいてほしい」と願っている。

 

よくさんまさんのことを若者に説明するときにシェアする映像がある。

www.youtube.com

これを見ると、さんまさんがいかにその存在だけで人々の心の支えになっているかがわかると思う。

自分はこれを見ると笑いながらも、だんだん泣きそうになってしまうことさえある。

 

でも、これは、勝手にそうなった訳じゃないし、有名な人だから、とかのバイアスで人々が洗脳されてる訳でもなく、

さんまさんが毎日毎日人々を笑わせて、嫌なことも一緒に笑い飛ばしてきた歴史があるゆえのものだと思う。

テレビと現実の世界は繋がっていないと思えることもあるだろうけど、自分は繋がっていると思う。

「さんまさんに助けられた」って人、本当にめちゃくちゃたくさんいると思う。

 

なんだかまとまらなくなってきちゃったけど、少しでも届けばいいな。

 

おわり

ホンマでっかTV 怖がり特集にて 2020/8/12

先日この録画を観てて、
こわがり、のメカニズムみたいな話が面白かったのでメモしとこうと。

 

〜番組の大筋はこちらのブログさんをご覧になるとよいかと思います〜

【ホンマでっかTV】怖がりな人の人生相談!吉田沙保里さん・那須川天心さんの悩みを解消(8月12日) | NEWS123

 

個人的にささったのは、

・怖がりの人にとっての怖さは音
人間は大部分を目からの情報に頼って生きてるので、目に見えてないけど何か音がなった、という状況に出くわすと情報処理ができなくなって、怖さを覚えるということなんだそうな。

 

・怖がりの人で幽霊を見る人は少数派
怖がりで幽霊なんて見たくないなぁと思ってる人には幽霊は見えず、
見てもいい、何なら見てみたいっていうマインドのある人のほうが幽霊を見る
つまり信じない者には見えないし、信じる者には見える

 

・トイレをあけっぱなしにするのは怖いから

こういうひとがいるというのはたまに話を聞くけど、なんでこういうことをするのかなって思ってたんですが、そっか、怖いんだ、と。

あの吉田沙保里でも夜一人でいる時は怖いのでトイレを開けっ放しにしていると思うと凄い話だと思いませんか。

 

トキソプラズマの話

猫の糞に含まれるトキソプラズマという物質に感染すると恐怖心がなくなっていくという研究報告があるんだそうな、、!

そんなのなにも知らなかったー(猫人間という設定なのに)

猫が人類を支配してる説みたいなのをネットとかでたまに見かけたけど、あれはそういう文脈からきてたのかなとか今気づくという。

 

といったところですかね。

なかなか好きな回でした。

さんまさんの番組はこうやって書き残していきたいな。

 

おしまい

渡部さんの件と不倫報道の是非のはなし

もう渡部氏の件で今日はもちきり。。

びっくりした。。

 

そんな中で


このツイをみて、
たしかに統計とかとったらそうかも、とか冷静に考えてしまった。


でも今の時代は女性も強い人はとことん強い立場にいるので、たぶんこの逆、つまり夫の容姿の良さと妻の浮気しやすさの相関関数も高まっていってるのかも、なんてこともおもったり。

 

で、本題。

 

謝罪とかいらないとか不倫とかどうでもいいとか、色々意見はあると思うし、わかるのだけど、
芸能界に限らず、我々の生きる世界では、「イメージ」というものが果たす役割が相当に大きいので、一回バランスが崩れると、おさまるところにおさまるまでしばらくはグシャグシャしてしまうものだと思う。


イメージ世界におけるインフラが壊れたみたいな状況。

アンジャッシュだと、歴史あるローカル線がしばらく運行休止になるくらいのインパクトはあるんじゃないかと(もっといい例えが浮かぶ人いるだろうな)。

 

そして、このグシャグシャ、インフラの復旧は、どう落とし前つくかが見えなければ見えないほどに長引くし皆が騒ぐ。

 

イメージの世界で高まってきた「好感」が、「嫌悪感」に変わってしまい、その行き先を求めてわーわーやってるのが今の状況だろう。

好感が高ければ高いほど落差が激しいのでそのイメージに触れてきた人たちはある種ダメージを負っているような状態だろう。心のなかにもやもやしたものがいて、それを何らかの形で解消したいと願うのはある種正常な反応だと思う。

「好き」がひっくり返るというのはそういうこと。

 

ここでまた最初に戻るが、もし謝罪も、報道も、なんの落とし前的な展開も「いらない」というのなら、(極論ではあるけど)それは、「イメージ」そのものをも否定することだと思う。

イメージを否定するということは、例えば好感とか嫌悪感、想像、妄想などと断絶した世界を生きるということ。
頼れるものは事実と数字とデータのみ、みたいな。

 

自分にはそういう生き方はいまのところ無理だと思うし、アンジャッシュのコントが好きなので、やっぱり「悲しいな」という気持ちでただ眺めてる。
それしかできない。

そういうもの。

 

またふたりのコント、観たいんだけどなぁ。

 

おしまい

「あざとい」について考えてみた

オンライン鑑賞会
ちょいちょい友人たちとオンライン鑑賞会をやる機会が増えてまして、バラエティ番組をよく観ています。
男女混合のグループなこともあって、特にZOOMとかは使わず、LINEのグループ通話機能を使って繋がって、皆でそれぞれの再生環境で「いっせーのせ」で再生して観ています。
このやり方だと女性陣はお化粧やら家の中を映すなどのリスクを負う必要もなく、煩わしさがだいぶ緩和されるようで、楽しくトークしてくれています。
 
その中で、「あざとくて何が悪いの?」という番組が大ヒットしました。
ちょうど最新放送の前に前回放送を再放送してくれていたので、皆すぐに馴染む事ができました。
 
田中みな実という稀代のモンスター女子(めちゃ褒めている。本当に素晴らしい所作。完成された美しさがある。)に、
みな実とはまたベクトルの違う感じのあざとさを持ち合わせる弘中綾香
そして山ちゃんの見事なツッコミが冴え渡りまくる、近年の企画モノバラエティの中でも凄くいいフォーマットだなぁと思うナイス番組です。

~あざとくて何が悪いの?については以下などを~

twitter.com

 
あざとい、てなんだろう
で、観終えたあと、メンバーでずっと恋愛トークしながら深夜までいってしまうんですけど、
そのなかで「あざとい」ってなんだろうっていうのを、ちょいちょい考えたり、皆とトークする中で何となく見えてきたことを箇条書きで書き残してみようとおもいます。
 
・被害者の会ができるもの
これは凄く的を射ているなと感じます。
素直に信じて痛い目に遭ってしまうひとが何人も生まれるもの、または、それが予想されるもの(ここ結構重要)をいつしか自分は「あざとい」と呼ぶようになっていました。
 
・一見して「餌」もしくは「ルアー」のように見えてしまうもの
「釣ってやるぞ」という意思を相手側から感じる時ですよね。
こういう時、相手の繰り出してくる動作も言葉もすべて「撒き餌」や「ルアー」のように見えてしまう事があると思います。
これもあざとさのでかい要因でしょう。
僕らが求めているのは、自然な対話であって、今どちらが優位かという主導権の握りあい:「政」的なニュアンスの事にはそんなに興味ないと思うんです。冷静に考えたら、ノイズでしかないのではないでしょうか。
 
・本人は特別な意思の下にやった訳ではなく、なんなら「置きに行っている」
これも重要な要素だと思います。
ボディタッチとか、褒め言葉とか、反射神経的に出る人達がこの世界にはいるんですよね。
あざとい側じゃない人がよく勘違いしてしまうのは、「これはよほどの思い切りや勇気がないとできない」と自分が感じていることを相手がやってくれるので、それを嬉しいと感じてしまう事だと思うのです。
違うんです。
当の本人は呼吸をするようにできてしまうんです。
何も考えてないって事が大半だと思います。
でもあざとい側じゃない普通のひとは、それを特別な事だと受け取ってしまうんです。
このすれ違いが沢山の悲劇を生んできた事と思います。アーメン。
 
・かわいくない、許せないもの
結果、これですよね。
最終的に、あざとさをまともに喰らわされた人は、そのひとのために貴重な人生の時間を浪費させられ、場合によってはお金も使うでしょう。。
それを「まぁ仕方ないか」と思えるものはギリギリ「あざとい」とは言わないものになるのだと思います。
あと、「かわいくない」と表現しましたが、これもキモだと思っていて、あざといものは表面的には「かわいさ」を纏っている、かわいさの皮をかぶっているものが非常に多いと思います。
なので、最初はかわいいなぁと思って入って、結果「いや、かわいくねぇわ」となるものの事を「あざとい」と呼ぶのだと思います。
 
・許されている感じの「あざとさ」もある
基本的には「むむむ・・」という反応を生むであろう、あざとさなのですが、
「仕方ないなぁもう」って許されているあざとさも存在しているのもまた事実です。
田中みな実も、弘中綾香も、あざといところがあるからって嫌いになったりしませんよね?
どうやら、突出して可愛い女子が見せるあざとさは「まぁこの子は仕方ないか・・」で済ませられるケースがあるようです。
そういうグレーゾーンが生まれることによってこのお話が物凄く面白いことになっているのだと思います。
ちなみに、自分は、「可愛いからって許されると思わない方がいいんじゃないかなぁ・・」という側のタイプ。つまり酷い目に遭った、遭いそうになったことがあるってことですね。笑
 
・・以上、研究の成果の報告でした。笑
 
なかなか真理に迫れているのではないかと思うのですがこれいかに。
 
あざとい、を振り回すひとは一周まわって面白い
で、これを書いたのはあざとい女子に怒っているからなのか?という事なんですけど、全然違うんです。 
今日もどこかで可愛い女子があざとさという武器をブンブン振り回してるのかなと思うと、もう逆に笑えてくるのです。
画で想像してみてください。
「あざとさ」て書いてある鎖鎌みたいなのをブンブン振り回してる鬼のような画とかを想像するといいと思います。(絵が描けないのが悔しい。伝われ・・!)
プライベートでもたまに遭遇してますが、嫌悪感より、もう笑いが込み上げてきてしまうのです。
「おいおい、振り回すな振り回すな、その鎖鎌を」と心の中でツッコミながら応対してしまう。
 
 今回この記事を書いたのは、この「笑い」の感覚を誰かと共感したくての事でした。
めちゃくちゃ面白いと思うんですよね。
 
で、じゃあどうしたら「あざとさ」を見抜けるだろうか?という事なんですけど、
またそれも皆とトークしたりして何となくでも答えが見えた時にこの記事へのアンサー記事として書いてみようと思います。
 
つづく・・?